ESSAY.1 声優?先ず、俳優であれ
ESSAY.2 心の色合いを語る豊かさを
エッセイ2愛媛新聞 2001年(平成13年)12月29日 掲載
2001年(平成13年)12月29日、愛媛新聞の文化面 に創設者 野沢那智氏のインタビュー記事が掲載されました。
ぜひ、HP読者にもご一読いただきたく、転載の許可を求めたところ、快諾いただきました。
あわせて企画趣旨もご連絡いただきました。
愛媛新聞さん、ホントにありがとうございます。
【企画趣旨】
2001年は愛媛県出身の俳人・歌人正岡子規の100回忌に当たり、愛媛新聞では子規の生き方や魅力を見直そうと様々な企画を展開した。野沢氏へのインタビューはその内の一つ。 子規は、言葉の世界に生きた。言葉の力でもって多くの仲間とともに創造に励み、生き抜いた。
インタビューは子規から百年、人と人を結ぶ言葉が希薄になる中で、言葉を大切にし、真剣に向き合っている方に登場していただき、言葉の力を考えようというもの。日本語に対する危機感を抱きつつ、次代を担う声優育成に尽力されている野沢さんに、言葉への思いを聞くのが狙い。
(愛媛新聞社報道局文化部 江頭 謙氏)
人と人をつなぐのが言葉。
人間関係が希薄になりつつある今、その力が見直されようとしている。
表現の最前線で活躍する野沢さんの言葉へのこだわりを聞いた。
-野沢さんは、今の言葉のあり方に危機感を感じている一人ですね。
ある駅のホームで電車に乗ろうと思ったら、「駆け込み乗車は危険なのでやめてください」とテープの声が流れた。 深夜で客はいない。一体だれに言っているのか。そんな無目的な言葉はだれも聞きやしない。
言葉は時と場に応じ、相手との関係性の中で発せられるもの。
言葉の社会的、文化的な意味を考えず、平然と流す神経に腹が立つ。
大人が子どもに言葉を大事にしよう、丁寧にしゃべろうと言っても、街に出ればテープに代表される無意味な声があふれている。
物心ついた頃からそれに慣らされている子供は言葉を信じなくなる。
言葉にかける期待や信頼はどんどんスポイルされる。
-若者は「ムカツク」と平然と使っています。言葉の意味と心の中身にギャップがある気がしますが。
相手に対し「むかつく」のは、人間が破局にいたるぎりぎりの状態のとき。
日常生活ではなかなか訪れない。
言葉は人間の内面の動きを濃密に伝える。一方で内面は使う言葉に限定されてくる。
このままだと、もっと複雑な自分の感情の動きに気付かなくなるし、その感情を言葉でどう表現していいか分からなくなる。
心は複雑に動いているのに、「チョー、ムカツク」と簡単に済ませては、人間的な成長が妨げられてしまう。
若者の言葉が貧困なのは、日本語を教えない現代教育とテレビの影響が大きい。
その言葉を大人がまねているのがまた問題。冗舌になれというのではない。
人に何かを伝えるならば、的確な言葉を選ぶ力を持つことだ。
心の色合いを語る豊かな言葉を持ちたい。
-野沢さんたち声優は言葉を大事にする仕事です。若者に人気があって目指す人も多いようですね。
俳優や声優にとって言葉は命。
40年以上前、日本で声優の仕事を始めたのは舞台俳優やラジオの放送劇団の人たちだった。
最初は洋画の吹き替えだった。みんな優れた演技力があり、見事な日本語を身に付けていた。
日本語に神経を割き、言葉をよく勉強していた。
「あっ、そんな言葉もあったな」と言い合うなど、スタジオはにぎやかだった。
当時50人程度だった声優は現在約1200人。潜在的な志望者は6万人もいると言われる。
ところが、今の若者は台本の漢字が読めない。僕の養成所でも、言葉を知らなくても調べてこない。
恥ずかしいとも感じていない。
日本語を操る技術者になろうとしているのに、言葉を知る意欲がないに苦しむ。
-言葉に貧しさが進めばどうなりますか。
孤独な人間を生み出していく。
今でも言葉が貧弱なため自分のことが相手に伝わっていない。
相手もほんとうに理解していないのではないか。そうやって孤独になっていく。
最近の青少年の凶悪犯罪もコミュニケーションがうまく取れない孤独から来ているようだ。
孤独から自己顕示欲に陥り、目立った行動を起こす。
-どうすれば人と人をつなぐ言葉の力を取り戻せるのでしょうか。
難しい。経済効率の問題がある。新しい通信メディアがますます発達し、便利になっていく。
一方で多様な言葉を生で使う精神は失われていく。
人間の内面が乏しくなることがダメだと気付いて、経済効率優先の価値観を転換するしかない。
下北沢の駅では、人が込んでくると駅員がスピーカーを手に、「白線から下がってください。
危ないですから。ドアが閉まります。駆け込み乗車はやめてください」と必死で叫んでいる。
そうだなと思う。これが言葉だ。












声優になろう、なりたいという人は星の数ほどいる。だが、殆どの人がなれない。
何故だろう?答えは極めて簡単。
そうした人たちには俳優になろうという気がないからだ。
今から四十年程前、外国映画の日本語版や、アニメの仕事を中心に所謂「声の仕事」が始まった。
出演者の殆どが舞台の俳優達や、かつて舞台俳優であった人達や、演技者として本当に厳しい試練を生き抜いてきたNHKやTBSの放送劇団の人達だった。
彼ら、彼女らは「声優」である前に、先ず優れた演技者、俳優達だったのだ。
日本語と四つに組み、見事な日本語を身につけた台詞の猛者達だったのだ。
どうも、その辺の事情の判っていない若者達が増えているような気がする。
「声優」と言われようと、実際に現場で仕事をして居るのは皆ンな俳優達だ。
俳優の仕事のジャンルに「声の仕事」があるに過ぎない。
さあ、そこで、じゃあ声優になろうとするんだったら、 俳優としての経験をそれなりに積んだ人でなければ到底不可能だと言うことは簡単に判る筈だ。
そんな簡単な事が何故判らないのだろう。
判ろうとしない気分は判る。
そんな長いことかけて修行するのは面倒だからだ。
声優ならすぐになれるんだろうと思ったからだ。
テレビの画面に映し出される出演者の名前だけ見ていたって何も判らない。
台本の配役表を見れば、出演者の大半が劇団の俳優だったり、かつての舞台経験者である事が一目瞭然だ。
そもそもの初めからそうであったように、四十年程たった今も、声優業界の状況は全く変わっていない。いや、演技者として歌ったり、踊ったりも要求される今後を考えると、俳優として多様な表現力を求められる傾向はもっと激しくなるだろう。
舞台の場合と少し違った放送技術の習得も大切だが、 その前に先ず俳優としてキチンと修行ができていなければ、どう望んでも声優として仕事をする事は不可能だと言う事を早く知って、 然るべき養成機関でしっかり修行を積んで欲しい。
私は1997年、そのために「パフォーミング・アート・センター」を開設した。